たとえ障害のある子が生まれても

何かしらのハンデや障害を持って生まれて来る子は、“親がどれだけ努力したところで不遇な人生を歩むのではないか?”というのが彼の見解。確かに健常者として生まれる子と比較したら、その可能性は大きいのかもしれない。けど、決してそうなるわけではないし、可能性の話をしたらキリがない。

彼が言うように、“自分が人とは違う”ということを肌で感じながら成長していくのであれば、それは子供にとって酷な話かもしれない。それだけでなく、あらゆる差別や偏見もあるだろう、健常者として生まれてくれば受けることのない苦労がどれほどあるかもわからない。それらを全て背負えるのか?

わたしは、子供に例えどんな“難”があろうが全身全霊で愛せる自信があるし、どんな苦労をも惜しまない覚悟だってある。けど、彼の観点からすれば、わたしは“無責任”に写っているのかもしれない。背負えるかもわからないことを背負おうとしているのだから。彼の懸念は的を得ている。

親が子の幸せを思うのは当然で、それは彼も同じ。生まれてくる子の幸福を願っているからこそ、ハンデを抱えてこの世に誕生するかもしれないリスクに大きな懸念を抱えているのである。でも、わたしのなかに中絶なんて選択肢はないし、意思が違う以上は彼と一緒に歩んで行くことは難しい。

そう考え、昨夜にわたしの見解を彼に述べ別れを告げた。でも、彼が『はいそうですか』とすんなり納得するわけもなく、再びその後何時間にも渡り話し合うことになった。結果、彼は“別れる”ということ以外はわたしの意思を尊重し、子供を産むことには賛成し手を取り合って行きたいと。

彼は子供のことだけでなく、わたしのことも心配なのだ。彼がわたしの考えに寄り添って来ても、彼に気負いしたくないわたしは一人で産んで育てた方が楽と考えていた。けど、それはわたしの中の“変な意地”だったようにも感じる。彼の寄り添う姿勢を突っぱねることへの疑問も生まれた。

彼と深く話し合ったことで、彼の言うことの方が正しいのではないかと感じさせりらる場面もあった。彼は子供のことに関して最後にこう言った、『実際起こってないことの結論なんて出るわけないんだから、結局は親の気持ち次第なんだよな』と。その通り、それだけのこと。彼はちゃんと理解してくれてる。

その気持ちの部分、気の持ちようで、わたしは“大雑把”だけど彼は“神経質”というだけのことである。運命共同体として考えてみれば、二人とも“大雑把”であるよりも、いずれかが“神経質”の方が偏りがなくてむしろいいのかもしれない。そのほうがバランスが取れそうな気もする。

そもそも、自分の意にそぐわない見解を彼が示してことに対して、わたしが“癇癪”を起こしていただけだったのかもしれない。よって、彼に別れを告げた結果、彼のことを肯定的に見つめなおすことになった。